概要#
小西行長(こにし ゆきなが)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。豊臣秀吉に仕えてその天下統一事業に貢献し、肥後国宇土城主として20万石を領した。熱心なキリシタン大名としても知られ、洗礼名は「アゴスチーニョ」である。文禄・慶長の役では主要な指揮官の一人として朝鮮半島に出兵し、外交交渉にも深く関与した。関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗れ、斬首された。
歴史・背景#
出自#
小西行長は、永禄8年(1555年)に生まれたとされている [1]。出自については諸説あり、有力なものとしては、堺の豪商・小西隆佐(こにし りゅうさ)の子として生まれたとする説と、近江国(現在の滋賀県)の出身とする説がある [2]。隆佐は薬種業や酒造業を営み、明との貿易にも携わっていたとされ、その経済力と国際的なネットワークは行長の後の活動に影響を与えた可能性がある。行長自身も幼少期から商才に長けていたと伝えられている。
秀吉への仕官#
行長は当初、備前国の戦国大名である宇喜多直家(うきた なおいえ)に仕えていたとされるが、天正5年(1577年)頃に豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の家臣となった [3]。秀吉は急速に勢力を拡大しており、行長の商才や外交能力を見抜いて重用した。行長は主に兵站や外交交渉において手腕を発揮し、秀吉の信頼を得ていった。特に、播磨攻めや中国攻めにおいては、その補給能力が高く評価された [4]。
キリシタンとしての信仰#
行長は天正6年(1578年)頃、イエズス会の宣教師ガスパール・コエリョから洗礼を受け、「アゴスチーニョ」の洗礼名を持つキリシタンとなった [5]。これは秀吉に仕える前のことであり、彼の信仰は生涯にわたって揺るがなかった。行長はキリシタン大名として、領内でキリスト教の布教を保護し、教会や学校の建設を奨励した。しかし、秀吉がバテレン追放令を発布して以降、キリシタンへの弾圧が強まる中でも、行長は信仰を捨てず、秀吉の政策と信仰の間で苦悩することとなる。
主要な内容#
大名としての領国経営#
豊臣秀吉の天下統一事業が進む中で、行長は武功と行政手腕を認められ、着実に領地を増やしていった。天正13年(1585年)の四国攻めでは水軍を率いて功を挙げ、翌年には和泉国(現在の大阪府南部)に3万石を与えられた [6]。天正15年(1587年)の九州平定後には、肥後国(現在の熊本県)の南半国、およそ20万石を与えられ、宇土城(うとじょう)を居城とした [7]。
肥後国は、佐々成政(さっさ なリまさ)の統治失敗後に発生した国人一揆の鎮圧が課題であった。行長は加藤清正(かとう きよまさ)と共にこの鎮圧にあたり、その後、領国の安定と発展に尽力した。行長は商人出身であることから、領国経営においても経済的な視点を重視し、商業の振興や港の整備に力を入れたとされている [8]。また、キリシタン大名として、領内のキリスト教徒を保護し、信仰の自由を一定程度保証した。
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)#
小西行長は、豊臣秀吉が企図した文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において、主要な指揮官の一人として重要な役割を担った [9]。
文禄の役#
文禄元年(1592年)に始まった文禄の役では、行長は「一番隊」の総大将として、約1万8千の兵を率いて朝鮮半島に上陸した [10]。彼は釜山に上陸後、迅速に進軍し、忠州(チュンジュ)の弾琴台(タングムデ)の戦いで朝鮮軍を破り、首都漢城(現在のソウル)をわずか18日で陥落させた。その後、平壌(ピョンヤン)を攻略するなど、緒戦で目覚ましい戦果を挙げた。
しかし、朝鮮半島における戦線が膠着し、明軍の参戦によって戦況は不利に転じた。行長は明の将軍李如松(り じょしょう)と交渉し、休戦協定を結ぶことに成功した [11]。この交渉は、明との講和を模索する秀吉の意向を汲んだものであったが、秀吉と明側の思惑のずれから、最終的に交渉は決裂することになる。この間、行長は明との講和を強く主張し、加藤清正ら武断派の武将たちとは意見の対立を深めた。
慶長の役#
文禄の役の講和交渉が決裂した後、慶長2年(1597年)に慶長の役が始まった。行長は再び朝鮮半島に渡海し、蔚山城の戦い(うるさんじょうのたたかい)や泗川の戦い(しせんのたたかい)などに参加した。しかし、明・朝鮮軍の抵抗は激しく、日本軍は苦戦を強いられた。行長は、度重なる戦役で疲弊した将兵の状況を憂慮し、再び講和の道を模索した。
この時期、行長は外交手腕を駆使して、明の将軍や朝鮮の役人との間で秘密交渉を行うこともあったとされている [12]。秀吉の死によって日本軍の撤退が決定されると、行長は安全な撤退のために尽力した。
関ヶ原の戦いと最期#
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が病死すると、豊臣政権内部では、文治派の石田三成(いしだ みつなり)らと武断派の加藤清正、福島正則(ふくしま まさのり)らの対立が激化した [13]。小西行長は、石田三成に近く、文禄・慶長の役での対立から加藤清正ら武断派とは不仲であったため、自然と三成を中心とする文治派に加わることになった。
慶長5年(1600年)、徳川家康(とくがわ いえやす)が会津の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)討伐のために出陣すると、三成はこれを好機と捉え、家康打倒の兵を挙げた。行長は西軍の一員として、関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)に参戦した。彼は約4,000の兵を率いて布陣したが、南宮山に陣取った毛利秀元(もうり ひでもと)隊や、松尾山に布陣した小早川秀秋(こばやかわ ひであき)隊の裏切りにより、西軍は総崩れとなった [14]。
行長は最後まで奮戦したが、敗走を余儀なくされ、伊吹山中に逃げ込んだ。しかし、キリシタンであった行長は、仏教徒が自害する際に用いる切腹を拒否し、自ら捕縛されることを選んだ [15]。行長は石田三成、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)と共に京都六条河原で斬首された [16]。享年46。彼の首は三条河原に晒された後、キリシタンの信仰に基づき、家臣によって密かに持ち去られ、埋葬されたと伝えられている。
関連事項#
加藤清正との関係#
小西行長と加藤清正は、ともに肥後国の領主でありながら、両者の関係は非常に険悪であったことで知られる [17]。この対立の背景には、いくつかの要因がある。
- 出自の違い: 行長が商人出身であるのに対し、清正は武将としての生え抜きであり、武士としての誇りが高かった。
- 信仰の違い: 行長は熱心なキリシタンであったが、清正は日蓮宗を深く信仰しており、キリスト教に対しては反発心を持っていた。
- 朝鮮出兵での戦略の違い: 文禄・慶長の役において、行長は外交交渉による講和を重視したのに対し、清正は武力による徹底抗戦を主張し、両者の意見は常に衝突した。特に、行長が明との休戦交渉を行ったことに対し、清正は不満を抱いていたとされる。
- 秀吉死後の政局: 秀吉の死後、行長は石田三成を中心とする文治派に接近し、清正は徳川家康を支持する武断派に属したため、政治的にも対立を深めた。
これらの対立は、肥後国での領地争いや、朝鮮半島での軍事行動においても顕著に表れ、両者の不仲は豊臣政権内部の亀裂を象徴するものであった。
宇土城の築城#
小西行長は、肥後国の領主となった後、宇土城を居城として大規模な改修を行った [18]。宇土城は、有明海に面した要衝に位置し、水陸両面からの防衛に適した堅固な城であった。行長は、この城を拠点として領国経営を行い、また朝鮮出兵の際には兵站基地としても利用した。宇土城は「キリシタンの城」とも呼ばれ、城下にはキリスト教の教会や南蛮貿易に関連する施設があったとされている。
子孫#
行長の嫡男である小西秀元(こにし ひでもと)は、父と共に朝鮮出兵に参加したが、関ヶ原の戦いで父が敗死したため、小西家は改易となった。秀元はその後、細川忠興(ほそかわ ただおき)に匿われた後、加藤清正の家臣として仕え、のちに浪人したとされる [19]。また、行長には娘がおり、その一人は豊臣秀頼(とよとみ ひでより)の側室となったという説もあるが、定かではない [20]。
脚注
- 笠谷和比古「関ヶ原合戦と大坂の陣」吉川弘文館、2007年。↩
- 泉澄一「小西行長」吉川弘文館、1987年。↩
- 同上。↩
- 渡邊大門「小西行長」戎光祥出版、2020年。↩
- 高瀬弘一郎「キリシタンの世紀」岩波書店、2004年。↩
- 泉澄一「小西行長」吉川弘文館、1987年。↩
- 同上。↩
- 渡邊大門「小西行長」戎光祥出版、2020年。↩
- 北島万次「豊臣秀吉の朝鮮侵略」吉川弘文館、1995年。↩
- 同上。↩
- 中野等「文禄・慶長の役」吉川弘文館、2008年。↩
- 同上。↩
- 笠谷和比古「関ヶ原合戦と大坂の陣」吉川弘文館、2007年。↩
- 白峰旬「関ヶ原合戦の真実」学研プラス、2014年。↩
- 泉澄一「小西行長」吉川弘文館、1987年。↩
- 笠谷和比古「関ヶ原合戦と大坂の陣」吉川弘文館、2007年。↩
- 渡邊大門「小西行長」戎光祥出版、2020年。↩
- 宇土市教育委員会「宇土城跡」宇土市教育委員会、2000年。↩
- 泉澄一「小西行長」吉川弘文館、1987年。↩
- 同上。↩
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