小牧・長久手の戦い

最終更新: 2026/1/27

概要#

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)に、天下統一を目前にした羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と、織田信長の後継者である織田信雄(おだ のぶかつ)およびその同盟者である徳川家康の間で行われた一連の合戦である [1]。この戦いは、信長死後の主導権争いと、秀吉の天下統一事業における最大の軍事衝突の一つとして位置づけられている。

歴史・背景#

織田信長死後の政情#

天正10年(1582年)の本能寺の変により、織田信長が家臣の明智光秀に討たれると、織田家では後継者問題が浮上した。信長の有力な旧臣たちは、清洲会議において協議を行い、三男の織田信孝を擁立する柴田勝家と、信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)を擁立する羽柴秀吉が対立した。結果として、秀吉が主導権を握り、三法師を後継者とし、信長の次男である織田信雄と三男の織田信孝を後見人に据える形となった [2]

賤ヶ岳の戦いと織田家の分裂#

清洲会議後も秀吉と柴田勝家の対立は続き、天正11年(1583年)には賤ヶ岳の戦いが発生した。この戦いで秀吉は勝家を破り、勝家は自害に追い込まれた。これにより、秀吉は織田家における主導的な地位を確立し、多くの旧織田家臣をその傘下に収めた [3]。しかし、信長の次男である織田信雄は、秀吉の勢力拡大を警戒し、自らの権益を守るために秀吉に対抗する姿勢を明確にした。

開戦への経緯#

信雄は、秀吉が織田家の家臣たちを自らの支配下に置こうとしていることに不満を抱き、秀吉に内通しているとされる家臣3名を独断で処罰した。これに対し、秀吉は信雄の行為を非難し、大軍を率いて尾張国へ侵攻を開始。信雄は、かねてより秀吉に対抗できる唯一の勢力と見なしていた徳川家康に援軍を要請した。家康はこれを承諾し、信雄と共に秀吉との対決姿勢を明確にしたことで、小牧・長久手の戦いが勃発した [1]

主要な内容#

小牧山城の攻防#

天正12年(1584年)3月、徳川家康織田信雄と共に、尾張国の要衝である小牧山城に布陣した。小牧山城は信長が築いた城であり、戦略的な拠点であった。これに対し、羽柴秀吉は犬山城を奪取し、小牧山城から南西に位置する楽田に本陣を構え、両軍は対峙した。秀吉軍は数で勝っていたものの、家康は小牧山城の堅固な守りと巧みな陣地構築により、秀吉軍の攻勢を阻んだ。この膠着状態は数か月にわたり続いた [4]

長久手の戦い#

小牧山での長期的な対峙の中、秀吉は家康の本拠地である三河国を奇襲する作戦を立案した。秀吉軍の一部、約2万と推定される部隊が、水野勝成、池田恒興、森長可らを将として、密かに小牧山を迂回し、三河へ進軍を開始した。この動きを察知した家康は、約7,000から8,000の兵を率いて追撃した [5]

4月9日、尾張国長久手において、徳川軍は秀吉軍の別働隊と衝突した。この長久手の戦いでは、徳川軍の奇襲戦術が功を奏し、池田恒興や森長可といった秀吉軍の主力将が戦死する大敗を喫した。この勝利により、家康は秀吉に対して軍事的な優位性を示し、秀吉の戦略に大きな打撃を与えた [5]

秀吉の伊勢攻めと和睦#

長久手の戦いでの敗北後も、秀吉は小牧山城の攻略には至らなかった。秀吉は戦線打開のため、別働隊を伊勢国に派遣し、信雄の領地を攻撃した。これにより、信雄は自領が攻撃されることに危機感を抱き、秀吉との和睦交渉を開始した。

家康はあくまで徹底抗戦の構えであったが、信雄が秀吉と単独で和睦したことで、大義名分を失った。家康は、信雄との同盟関係が解消された以上、秀吉と戦い続けることの難しさを認識したとされる [6]

結果として、天正12年(1584年)11月、徳川家康は形式上、秀吉に臣従する形を取り、子の松平秀康を人質として差し出すことで和睦が成立した。これにより、小牧・長久手の戦いは終結した [6]

関連事項#

戦いの意義#

小牧・長久手の戦いは、羽柴秀吉が天下統一を盤石にする過程における最大の軍事的な試練であった。家康は軍事的には勝利を収めたものの、政治的には秀吉の優位が確立された。この戦いを通じて、秀吉は武力だけでなく、政治的な駆け引きや外交手腕を駆使して天下統一を進める姿勢を示した [7]

一方、徳川家康にとっては、秀吉の軍事力を体験し、その強大さを認識する機会となった。家康は、この戦い以降、秀吉に対しては表面上は恭順の姿勢を取りつつも、着実に自らの勢力を温存・拡大していく戦略を採ったとされている [7]

その後の両者の関係#

戦後、家康は秀吉の臣下となったが、その関係は複雑であった。秀吉は家康を警戒しつつも、その実力を高く評価しており、家康は秀吉の要請に応じて、小田原征伐文禄・慶長の役に参陣した [8]。しかし、秀吉の死後、家康は天下人の座を狙い、関ヶ原の戦いを経て江戸幕府を開くことになる。小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康という二人の天下人の権力闘争の序章として、日本史において重要な位置を占めている [8]

脚注

  1. 笠谷和比古「関ヶ原合戦 家康の天下取り」講談社選書メチエ、2004年。
  2. 藤田達生「織田信長伝」講談社現代新書、2021年。
  3. 谷口克広「織田信長家臣人名辞典」吉川弘文館、1995年。
  4. 渡邉大門「徳川家康と織田信長 その政治過程」吉川弘文館、2014年。
  5. 小和田哲男「戦国のいくさ」学研プラス、2001年。
  6. 柴裕之「徳川家康 奮戦と和睦の戦国史」中央公論新社、2023年。
  7. 宮本義己「戦国武将の外交戦略」中央公論新社、2010年。
  8. 本多隆成「徳川家康と戦国の時代」日本放送出版協会、2004年。

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