概要#
福島正則は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、大名である [1]。豊臣秀吉の家臣として仕え、賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられるなど、数々の戦功を挙げた [2]。秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍の主力として活躍するも、大阪の陣の後に改易され、不遇の晩年を送った [3]。
歴史・背景#
生い立ちと秀吉との関係#
福島正則は永禄4年(1561年)、尾張国海東郡二ツ寺村(現在の愛知県あま市)に生まれた。父は福島市兵衛正光とされ、母は豊臣秀吉の叔母とされる [4]。この血縁関係から、正則は幼少期より秀吉に近侍し、小姓として仕えた [5]。秀吉の出世とともに正則も台頭し、早くから馬廻り衆に加えられるなど、秀吉からの寵愛を受けていたことがうかがえる。
賤ヶ岳の戦いと七本槍#
天正11年(1583年)に勃発した賤ヶ岳の戦いでは、秀吉方として柴田勝家軍と激戦を繰り広げた。この戦いで福島正則は、一番槍を挙げたとされる武功を立て、戦後には播磨国内で5000石を与えられた [6]。この功績により、加藤清正、片桐且元らと共に「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられ、豊臣政権下における武功派の重鎮としての地位を確立した。
秀吉政権下での活躍#
賤ヶ岳の戦い以降も、正則は秀吉の主要な戦役に従軍した。小牧・長久手の戦い、九州平定、小田原征伐などに参戦し、常に先鋒を務めるなど武勇を発揮した [7]。特に九州平定では伊予国今治十万石を与えられ、大名としての足がかりを築いた。文禄・慶長の役では、水軍を率いて朝鮮半島へ出兵。帰国後には安芸国広島二十四万石を与えられ、豊臣政権下における有力大名の一人となった [8]。
秀吉の晩年には、加藤清正らと共に武断派の筆頭として、石田三成ら文治派と対立を深めていったとされる [9]。
主要な内容#
関ヶ原の戦いと東軍参戦#
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、五大老・五奉行間の対立が激化し、天下は二分された。福島正則は、豊臣恩顧の大名でありながら、かねてより対立していた石田三成への反発から、徳川家康に接近した [10]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康率いる東軍に与し、東軍の先鋒として奮戦した。岐阜城攻めに参加した後、関ヶ原の本戦では宇喜多秀家隊と激突し、激しい攻防を繰り広げた [11]。正則隊の奮戦は、東軍の勝利に大きく貢献したと評価されている。戦後、その功績によって安芸国と備後国の二ヶ国、合わせて四十九万八千石を与えられ、徳川政権下における外様大名としては有数の大身となった [12]。
広島藩主時代#
広島藩主となった正則は、藩政の確立に尽力した。検地を実施し、城下町の整備や治水工事を行うなど、領内の安定と発展に努めた [13]。しかし、正則は武断派の気質が強く、家康やその子である秀忠に対しては、豊臣家への忠誠心との間で複雑な感情を抱いていたとされる。
大阪の陣と改易#
慶長19年(1614年)に大阪冬の陣、慶長20年(1615年)に大阪夏の陣が勃発すると、正則は徳川方として参戦を命じられた。しかし、豊臣家への恩義から積極的な参戦には至らず、一説には病と称して出陣を遅らせたともいわれる [14]。最終的に、正則は嫡男の福島正之を代理として大坂へ送ったものの、その行動は徳川家康から不信感を抱かれる要因となった。
元和5年(1619年)、正則は居城である広島城の無断修築を理由に、幕府から改易を命じられた [15]。これは、幕府が豊臣恩顧の大名に対する統制を強化する一環であり、正則が豊臣家との関係を完全に断ち切れないと見なされた結果であるとされている。正則は信濃国川中島四万五千石に減封され、その後、嫡男に先立たれたこともあり、不遇の晩年を送った。
関連事項#
武勇と人柄#
福島正則は、生涯にわたる数々の武功から「猛将」として知られている [16]。猪突猛進な性格であったとされ、感情の起伏が激しい一面もあったが、一方で情に厚く、家臣や民衆からは慕われていたという逸話も多い。豊臣秀吉への忠誠心は深く、秀吉の死後もその恩義を忘れなかったとされる。
晩年と死#
改易後、福島正則は不遇のまま信濃国高井野で生活した。寛永元年(1624年)7月13日、64歳で死去 [17]。死後、幕府は正則の遺体を密かに埋葬したとして、高井野の領地を没収した。しかし、これは正則の死を口実とした幕府による更なる締め付けであったとの見方もある [18]。
子孫#
正則の死後、福島家は一時的に改易されたものの、後に正則の孫である福島正利が旗本として再興を許された。しかし、大名家として再興することはなく、明治維新まで旗本として存続した。
脚注
- 桑田忠親「豊臣秀吉のすべて」新人物往来社、1981年。↩
- 渡辺武「豊臣家臣団の形成と発展」吉川弘文館、1992年。↩
- 笠谷和比古「関ヶ原合戦と大坂の陣」吉川弘文館、2007年。↩
- 歴史群像シリーズ「福島正則」学研、2000年。↩
- 同上。↩
- 谷口克広「織田信長家臣人名辞典」吉川弘文館、1995年。↩
- 同上。↩
- 藤本正行「戦国大名家臣団の構造」吉川弘文館、1993年。↩
- 笠谷和比古「関ヶ原合戦と大坂の陣」吉川弘文館、2007年。↩
- 同上。↩
- 二木謙一「関ヶ原合戦」中央公論新社、2000年。↩
- 同上。↩
- 広島市史編纂委員会「新修広島市史」広島市、1981年。↩
- 笠谷和比古「関ヶ原合戦と大坂の陣」吉川弘文館、2007年。↩
- 同上。↩
- 歴史群像シリーズ「福島正則」学研、2000年。↩
- 桑田忠親「豊臣秀吉のすべて」新人物往来社、1981年。↩
- 笠谷和比古「関ヶ原合戦と大坂の陣」吉川弘文館、2007年。↩
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