稲生の戦い#
稲生の戦いは、永禄元年8月8日(1558年9月19日)に尾張国春日井郡稲生(現在の愛知県名古屋市西区稲生町付近)で行われた、織田信長と彼の弟である織田信行(信勝)との間の合戦である [1]。この戦いは、織田信長による尾張統一の過程における重要な局面の一つであり、織田家内部の権力闘争の決着を決定づけた戦いとして知られている。
歴史・背景#
織田信長の父である織田信秀は、尾張国守護代の織田大和守家(清洲織田氏)の奉行を務める織田弾正忠家の当主であり、尾張国内に勢力を拡大していた。信秀の死後、家督を継いだ信長は、その奇抜な行動から「うつけ」と評されることもあったが、尾張統一を目指して積極的に行動を開始する [2]。
しかし、織田家内部には信長に対する不満を持つ勢力も存在した。特に、信長の弟である織田信行は、母である土田御前の寵愛を受けており、家臣の中にも彼を擁立しようとする動きがあった。信行を支持する主な家臣には、柴田勝家、林秀貞、林通具などがいた [3]。
弘治2年(1556年)8月、信行らは信長に対して反乱を起こし、織田家内部で大規模な衝突が発生した(稲生の戦いの前哨戦にあたる萱津の戦い)。この戦いは信長方の勝利に終わり、信行は降伏したが、信長の母である土田御前の嘆願により赦免された [4]。しかし、信行が再び信長に敵対する動きを見せたため、永禄元年(1558年)に再び両者の間で戦いが勃発することになる。これが「稲生の戦い」である [1]。
主要な内容#
稲生の戦いは、永禄元年8月8日(1558年9月19日)に尾張国春日井郡稲生で行われた。この戦いの経緯は『信長公記』などの史料に詳しい [1]。
両軍の編成と布陣#
信長方の兵力は700〜800騎程度とされ、対する信行方の兵力は1,700〜1,800騎と信長方を大きく上回っていた [5]。
-
信長方:
- 織田信長
- 織田信光(信長の叔父、清洲城主)
- 佐久間盛重
- 森可成
- 佐々成政
- 前田利家
- 池田恒興 など
-
信行方:
- 織田信行
- 柴田勝家
- 林秀貞
- 林通具
- 津々木蔵人 など
信行方は清洲城から出陣し、稲生に布陣した。信長は小牧山城(当時の居城は清洲城に近く、小牧山城は後の居城)から出陣し、稲生へと向かった [6]。
戦いの経過#
戦いは信長方の劣勢で始まった。信行方の兵数が多く、特に柴田勝家率いる部隊は奮戦し、信長方の佐久間盛重を討ち取るなど、一時優勢に立った [7]。しかし、信長は自ら先頭に立って指揮を執り、味方を鼓舞した。信長は槍を手に敵陣に突入し、多くの敵兵を討ち取ったと伝えられている [8]。
信長の奮戦により、戦況は徐々に信長方に傾き始めた。特に、信長が信行方の本陣に迫ると、信行方の兵は動揺し、次第に崩れていった。林通具は信長によって討ち取られ、林秀貞は戦場から逃走した [9]。柴田勝家も奮戦したが、最終的には敗走を余儀なくされた。
結果と影響#
稲生の戦いは、信長方の圧倒的な勝利に終わった。この戦いにより、信行方の主要な武将である林通具が討ち死にし、林秀貞、柴田勝家らは敗走した [9]。
信行は再び降伏を申し出た。信長は当初、信行を処断しようとしたが、母である土田御前の嘆願や、家臣の池田恒興の進言もあり、再び信行を赦免した [10]。しかし、この赦免は一時的なものであった。翌永禄2年(1559年)、信行が再び信長への謀反を企てていることが発覚すると、信長は病を装って信行を清洲城に呼び出し、謀殺した [11]。
稲生の戦いとそれに続く信行の死により、織田家内部の権力闘争は完全に終結し、信長による尾張統一への道筋がより明確になった。この戦いは、信長の家臣団における求心力を高め、その後の尾張統一戦、さらには天下統一への足がかりとなった重要な戦いであると評価されている [12]。柴田勝家や林秀貞といった、かつて信行を支持した重臣たちも、この戦いを経て信長に忠誠を誓い、その後の信長を支える重要な家臣となっていった [13]。
関連事項#
- 萱津の戦い:稲生の戦いの2年前(1556年)に行われた、信長と信行の最初の対決。この戦いでも信長が勝利し、信行は降伏したが赦免された [4]。
- 清洲城:信長が尾張統一の拠点とした城。稲生の戦い後、信長は清洲城を本拠として尾張統一を進めた [14]。
- 織田信行(信勝):信長の弟。母の土田御前に寵愛され、家臣の中にも信長に不満を持つ者が彼を擁立しようとした。稲生の戦い後、一時赦免されるも、再度の謀反計画が発覚し謀殺された [11]。
- 柴田勝家:織田家の重臣。稲生の戦いでは信行方として戦ったが、敗戦後は信長に帰順し、以降は信長の主要な武将として活躍した [13]。
- 林秀貞:織田家の重臣。稲生の戦いでは信行方として参戦したが、戦後は信長に赦され、後に信長の家臣として仕えた。しかし、後に信長によって追放される [15]。
脚注
- 太田牛一「信長公記」巻首「信長御兄弟御闘争の事」↩
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年。↩
- 池上裕子『織田信長』吉川弘文館、2012年。↩
- 太田牛一「信長公記」巻首「勘十郎信行生害の事」↩
- 『信長公記』の記述に基づく。ただし、正確な兵力は史料によって差異がある場合がある。↩
- 『信長公記』↩
- 堀新「信長と弟信行・信勝」『歴史読本』2006年9月号。↩
- 『信長公記』巻首「稲生合戦の事」↩
- 太田牛一「信長公記」巻首「稲生合戦の事」↩
- 『信長公記』巻首「信行生害の事」↩
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年。↩
- 藤本正行『織田信長合戦の研究』吉川弘文館、2011年。↩
- 柴裕之「柴田勝家」『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年。↩
- 堀田浩之「清洲城と織田信長」『城郭と城下町』2007年第24号。↩
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年。↩
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