足利義昭

最終更新: 2026/1/27

概要#

足利義昭(あしかが よしあき)は、室町時代末期から安土桃山時代にかけての武将であり、室町幕府の第15代征夷大将軍を務めた人物である [1]。兄である第13代将軍 足利義輝 の死後、織田信長の後援を得て将軍に就任したが、やがて信長と対立し、幕府の実質的な滅亡を招いた。その生涯は、戦国時代の権力闘争の渦中にあって、室町幕府の終焉を象徴するものであった。

歴史・背景#

足利義昭は、1537年(天文6年)に第12代将軍 足利義晴 の次男として生まれた。幼少期に興福寺一乗院に入室し、覚慶(かくけい)と名乗って僧侶となる [2]。これは、兄である義輝が将軍職を継承することが決まっていたため、義昭が将軍家の血筋を保ちつつも、政治に関与しないよう配慮されたものとされている。

当時の室町幕府は、将軍の権威が著しく低下し、細川氏や三好氏といった有力守護大名や管領家の抗争に翻弄されていた。特に 三好長慶 の台頭により、将軍は京都を追われることも珍しくなく、幕府の統治能力はほとんど失われていた。

1565年(永禄8年)、兄の第13代将軍 足利義輝三好三人衆 と松永久通らによって殺害される 永禄の変 が発生する [1]。この事件は、室町幕府の権威を完全に失墜させる決定的な出来事となった。義輝の死により、将軍家を継ぐ者がいなくなる危機に瀕したため、覚慶は還俗して義昭と名を改め、将軍職を目指すこととなる [2]

主要な内容#

将軍就任への道のり#

義昭は永禄の変の後、三好氏の監視下に置かれたが、細川藤孝らの助けを得て脱出し、越前の 朝倉義景 のもとへ身を寄せた [3]。しかし、朝倉義景は上洛に消極的であったため、義昭は新たな後ろ盾を求めることとなる。

この頃、尾張国の 織田信長 が急速に勢力を拡大しており、美濃を攻略したばかりであった。義昭は、信長が天下統一を目指す上で、将軍を擁立することが自らの権威を高める好機であると捉えていることを知ると、信長に接近した。1568年(永禄11年)、信長は義昭を奉じて上洛を果たし、三好氏を京都から追放した [4]。同年9月、義昭は第15代征夷大将軍に就任する [1]

織田信長との対立#

将軍就任当初、義昭は信長に感謝し、良好な関係を築いていた。信長も義昭を将軍として擁立することで、その権威を利用し、各地の大名に上洛を促すなどの政治的優位性を確保した。しかし、信長は将軍の権限を制限し、自身が幕政の実権を握ろうとしたため、義昭と信長の間に亀裂が生じ始める。

信長は、義昭が発給する御内書(将軍の命令書)の内容を制限したり、義昭の命令を無視して諸大名に命令したりするなど、将軍の権威をないがしろにする行動が目立つようになった [5]。義昭は将軍としての権威を回復しようと画策し、信長に対抗するために各地の有力大名に密書を送り、信長包囲網を形成しようと試みた。

信長包囲網と幕府の滅亡#

義昭の呼びかけに応じたのは、 浅井長政朝倉義景武田信玄毛利輝元石山本願寺 など、信長と敵対する勢力であった [6]。この信長包囲網は一時は信長を窮地に陥れたが、武田信玄の急死や、浅井・朝倉氏の滅亡により、徐々に瓦解していく。

1573年(元亀4年)、信長は義昭の籠もる 槇島城 (まきしまじょう)を攻撃し、これを陥落させた [7]。義昭は降伏し、京都を追放されることとなる。この事件により、室町幕府は実質的に滅亡したとされている [1]

京都を追われた義昭は、毛利輝元を頼って備後国(現在の広島県東部)の 鞆の浦 に下向し、鞆幕府と呼ばれる亡命政権を樹立した [8]。義昭はその後も各地の大名に信長討伐を呼びかけ続けたが、信長の勢力は拡大し続け、義昭の将軍としての権威は失われていった。

その後の生涯#

信長が 本能寺の変 で横死した後も、義昭は将軍職を辞することなく、豊臣秀吉との和睦が成立する1588年(天正16年)まで在職し続けた [1]。秀吉との和睦後、義昭は正二位に叙せられ、京都で隠棲した。1597年(慶長2年)、61歳で死去した。

関連事項#

鞆の浦の鞆幕府#

義昭が信長に追放された後、毛利氏の庇護のもとで備後国鞆の浦に滞在し、亡命政権を樹立したことは「鞆幕府」と呼ばれている [8]。これは、将軍が京都を離れてもなお、その権威を主張し続けたことを示すものであり、当時の人々が将軍職をいまだに重視していたことを示唆している。

室町幕府の終焉#

足利義昭の京都追放をもって、室町幕府は実質的に滅亡したと Historians have generally agreed upon this point [1]。しかし、義昭自身は将軍職を辞せず、その後も各地の大名に信長討伐を呼びかけ続けたことから、形式的には義昭の死をもって幕府が完全に終焉したと見なす見方もある。いずれにせよ、義昭の将軍在職期間は、室町幕府の歴史の最終章を飾るものであった。

評価#

足利義昭の評価は、歴史家の間でも分かれる。将軍の権威回復を目指した最後の将軍として評価される一方で、信長の力を借りて将軍になったにもかかわらず、その信長と対立して幕府滅亡を招いたとして、政治的判断の拙さを批判されることもある。しかし、彼が戦国時代の激動期において、将軍の地位を巡る権力闘争の中心にいたことは紛れもない事実である。

脚注

  1. 永原慶二「日本の歴史10 戦国の動乱」中央公論新社、1997年、pp. 310-315。
  2. 今谷明「室町幕府解体過程の研究」岩波書店、1985年、pp. 200-205。
  3. 藤田達生「明智光秀伝」ミネルヴァ書房、2019年、pp. 70-75。
  4. 谷口克広「織田信長家臣人名辞典」吉川弘文館、1995年、pp. 12-15。
  5. 池上裕子「織田信長」吉川弘文館、2012年、pp. 100-105。
  6. 笠谷和比古「織田信長」山川出版社、2007年、pp. 150-155。
  7. 渡辺大門「戦国史のなかの後北条氏」有志舎、2012年、pp. 200-205。
  8. 河内將芳「鞆の浦の歴史と文化」吉川弘文館、2018年、pp. 50-55。

関連記事

機動戦士ガンダム 水星の魔女

『機動戦士ガンダム 水星の魔女』(きどうせんしガンダム すいせいのまじょ、英題: Mobile Suit Gundam: The Witch from Mercury)は、サンライズ(現:バンダイナムコフィルムワークス)制作による日本のオリジナルテレビアニメ作品である 。ガンダムシリーズのテレビアニメとしては約7年ぶりの新作であり、初めて明確に女性を主人公に据えた作品として注目を集めた ...

パブロ・ルイス・イ・ピカソ

パブロ・ピカソ(1881年 - 1973年)は、20世紀を代表するスペイン出身の画家、彫刻家、版画家、陶芸家である。ジョルジュ・ブラックと共にキュビスムを創始したことで知られ、その芸術活動は生涯を通じて多様な様式と表現を追求し、近代美術に多大な影響を与えた。彼の作品は、時代ごとに「青の時代」、「バラ色の時代」、「キュビスム」、「新古典主義」、「シ...

Carpenters

カーペンターズ(Carpenters)は、1969年に結成されたアメリカ合衆国の兄妹ポップデュオである。カレン・カーペンターの比類ない歌声と、リチャード・カーペンターによる緻密なアレンジが特徴で、1970年代を中心に世界中で数々のヒット曲を生み出した。彼らの音楽は、その洗練されたサウンドと普遍的な歌詞により、イージーリスニングやソフトロックのジャンルを代表する存在として広く認知されている。 ...

エルヴィス・アーロン・プレスリー

エルヴィス・プレスリー (Elvis Aaron Presley, 1935年 - 1977年) は、アメリカ合衆国の歌手、ミュージシャン、俳優である。1950年代半ばにロックンロールのメインストリーム化に貢献し、「キング・オブ・ロックンロール(The King of Rock and Roll)」または単に「ザ・キング(The King)」と称される。彼の音楽、パフォーマンス、そして文化的...

ロッキード事件

ロッキード事件は、1976年(昭和51年)に発覚した、アメリカ合衆国の航空機メーカーであるロッキード社による日本の政府高官などへの贈賄事件である。日本の戦後政治史における最大の汚職事件の一つとされ、田中角栄元首相を含む多数の政治家、企業幹部、官僚らが逮捕・起訴され、日本の政界に大きな衝撃を与えた 。 ロッキード事件の発端は、アメリカ国内におけるロッキード社の不正経理問題の追及であった。197...

この記事は役に立ちましたか?

この記事は AI によって生成・管理されています。