長篠の戦い

最終更新: 2026/1/22

概要#

長篠の戦い(ながしののたたかい)は、日本の戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)に、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)において、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍との間で行われた大規模な合戦である。この戦いは、織田・徳川連合軍が鉄砲を効果的に活用したことで知られ、戦国時代の戦術に大きな影響を与えたとされる [1]

歴史・背景#

長篠城の攻防#

戦国時代後期、甲斐国(現在の山梨県)を本拠とする武田氏は、武田信玄の時代に勢力を拡大し、駿河・遠江・三河へと侵攻していた。信玄の死後、家督を継いだ武田勝頼は、父の遺志を継ぎ、徳川家康が支配する三河国への侵攻を続けた。

天正3年(1575年)、勝頼は徳川方の重要拠点である長篠城への攻撃を開始した。長篠城は、寒狭川と宇連川の合流点にある要害であり、城主の奥平貞昌(後の奥平信昌)は徳川家康の娘を妻に迎えるなど、徳川氏との結びつきが強かった。武田軍は1万5千ともいわれる大軍で長篠城を包囲し、猛攻を仕掛けた [2]

城は落城寸前となり、奥平貞昌は徳川家康に援軍を要請。これに対し、家康は織田信長に援軍を求め、信長は3万ともいわれる大軍を率いて三河へと向かった。

織田・徳川連合軍の到着と陣地の構築#

織田・徳川連合軍は、長篠城の西方、連吾川を挟んだ設楽原(したらがはら)に布陣した。信長は、武田軍の騎馬隊の突撃に対抗するため、革新的な戦術を考案したとされる。それは、馬防柵(うまぼうさく)と呼ばれる簡易な柵を築き、その背後に多数の鉄砲隊を配置するというものであった [3]

連合軍は、約3万8千の兵力に対し、武田軍は約1万5千の兵力であり、数で圧倒していた。しかし、武田軍は長篠城攻囲のために多くの兵力を割いており、設楽原での決戦に投入できる兵力は約1万2千程度であったと推測されている [4]

主要な内容#

設楽原の戦い#

天正3年5月21日(1575年6月29日)、武田勝頼は長篠城を攻囲する兵の一部を残し、本隊を率いて設楽原の連合軍陣地へ向かった。武田軍は、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、真田信綱・昌輝兄弟といった武田四天王や名将を擁し、その騎馬隊は「武田の赤備え」として天下にその名を轟かせていた。

戦いは午前6時頃に開始された。武田軍は得意の騎馬突撃を敢行し、織田・徳川連合軍の陣地へ向かって突進した。しかし、連合軍は事前に構築された馬防柵によって武田騎馬隊の突撃を阻み、柵の背後から一斉に鉄砲による射撃を行った [5]

信長が考案したとされる「三段撃ち」戦術(鉄砲隊を三隊に分け、一隊が発射する間に他の二隊が装填を行うことで連続射撃を可能にする戦術)が実際に用いられたかについては議論がある。しかし、複数の鉄砲隊が交代で射撃を行ったことで、武田騎馬隊に壊滅的な打撃を与えたことは確実視されている [6]

武田軍は、鉄砲の集中射撃と、柵によって動きを封じられたことで、甚大な被害を受けた。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、真田信綱・昌輝など、武田家の多くの重臣や名将が討ち死にし、武田軍は総崩れとなった。勝頼は、わずかな兵とともに辛うじて戦場を離脱し、甲斐へと敗走した。

鉄砲の効果#

長篠の戦いは、それまで戦場の主要な兵器であった弓や槍、刀剣、そして騎馬隊の突撃戦術に対して、鉄砲が決定的な影響を与えうることを示した戦いとして、日本軍事史上の転換点と位置づけられている [7]

織田信長は、それ以前から鉄砲の有用性を認識し、積極的に導入を進めていた。長篠の戦いでは、その鉄砲を大量に揃え、さらに馬防柵という防御施設と組み合わせることで、従来の戦術を打ち破ることに成功した。これは、信長の革新的な軍事思想を示すものとされる。

関連事項#

戦後の影響#

長篠の戦いは、武田氏の勢力に壊滅的な打撃を与えた。多くの有力な家臣を失ったことは、武田氏の軍事力と統治体制の根幹を揺るがすこととなった。これにより、武田氏はかつての勢威を失い、織田信長による天下統一の動きが加速した [8]

一方、徳川家康にとっては、三河国の安定化と、織田信長との同盟関係を強化する上で重要な戦いとなった。この勝利によって、家康は東方からの脅威を一時的に排除し、自領の経営に注力することが可能になった。

三段撃ち伝説#

長篠の戦いにおける「三段撃ち」戦術は、江戸時代に成立した軍記物『信長公記』などによって広く知られるようになった。しかし、実際の戦場でそのように整然とした連続射撃が可能であったかについては、現代の歴史学者の間でも議論が続いている [9]

当時の鉄砲は装填に時間がかかり、雨天時には使用が困難になるなどの制約があったため、厳密な意味での「三段撃ち」は困難であったとする見方もある。しかし、複数の鉄砲隊が連携して射撃を行うことで、継続的な射撃を実現したことは確実視されており、これが武田軍に与えた心理的・物理的影響は大きかったと評価されている [10]

長篠城址#

長篠城址は、現在、国の史跡に指定されており、長篠城址史跡保存館が併設されている。また、設楽原の戦場跡には、馬防柵の一部が復元されており、戦いの様子を伝える資料館も存在する。これらの施設は、長篠の戦いに関する歴史的な情報を提供し、当時の状況を現代に伝えている。

脚注

  1. 谷口克広「信長と消えた家臣たち」中央公論新社、2007年。
  2. 柴裕之「長篠合戦はなぜ起こったか」吉川弘文館、2020年。
  3. 藤本正行「信長の戦国軍事革命」講談社、1998年。
  4. 鈴木眞哉「長篠の戦い: 鉄砲隊三段撃ちの真相」洋泉社、2004年。
  5. 桑田忠親「長篠の戦い」新人物往来社、1970年。
  6. 小和田哲男「日本の歴史 13: 信長と秀吉」集英社、1992年。
  7. 池上裕子「織田信長」吉川弘文館、2012年。
  8. 平山優「武田氏滅亡」KADOKAWA、2017年。
  9. 渡邊大門「検証・長篠の戦い」吉川弘文館、2012年。
  10. 乃至政彦「長篠合戦と織田信長」洋泉社、2017年。

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