織田信秀

最終更新: 2026/1/26

概要#

織田信秀(おだ のぶひで)は、戦国時代の武将であり、尾張国の戦国大名である織田氏の当主である [1]。後の天下人となる織田信長の父として知られ、尾張統一の基礎を築いた人物である。

歴史・背景#

織田氏の台頭#

織田氏は、もともと尾張国の守護である斯波氏の守護代を務める家柄であった。信秀の祖父である織田敏定の代から、織田氏の中でも清洲織田氏(織田大和守家)の家臣でありながら、独自に勢力を拡大し始めた [2]。信秀の父である織田信定の時代には、本家である清洲織田氏や、もう一つの守護代家である岩倉織田氏(織田伊勢守家)を凌ぐ実力を蓄え、尾張国内に大きな影響力を持つに至った [3]

信秀の家督継承と初期の活動#

永正7年(1510年)に生まれたとされる織田信秀は、父・信定の隠居に伴い、天文元年(1532年)頃に家督を継承したとみられている [4]。家督継承後、信秀は本拠地を勝幡城(現在の愛知県愛西市)から那古野城(現在の名古屋市中区)に移し、経済的基盤を強化した [5]。当時の尾張国は、守護の斯波氏が衰退し、守護代の清洲織田氏と岩倉織田氏が対立、さらにその両守護代の下に数多くの国人衆が割拠する複雑な情勢にあった [6]。信秀は、この混乱に乗じて勢力の拡大を図っていった。

主要な内容#

積極的な領土拡大と外交戦略#

織田信秀は、家督継承後、積極的に尾張国内の統一を目指し、周辺勢力との戦いを繰り広げた。

東への進出と今川氏との対立#

信秀は、尾張の東隣に位置する三河国への進出を試み、たびたび三河の国人衆を攻撃した [7]。この動きは、三河の隣国である駿河国を拠点とする今川氏との衝突を招いた。天文4年(1535年)には、三河の松平氏を攻め、一時は松平氏の当主である松平清康を討ち取る寸前まで追い詰めたとされるが、清康が家臣に殺害されるという「守山崩れ」によって、三河への本格的な進出は一時的に頓挫した [8]。その後も今川氏は三河を支配下に置こうとし、信秀は今川氏との間で激しい抗争を繰り返した。特に、三河安祥城(現在の愛知県安城市)を巡る攻防は激しく、信秀は今川氏の重臣である太原雪斎率いる軍勢と何度も戦った [9]

斎藤道三との関係#

尾張国の北隣に位置する美濃国斎藤道三とは、一時期は激しく対立した。特に、天文13年(1544年)の加納口の戦いでは、信秀が道三に大敗を喫している [10]。しかし、その後、信秀は道三と和睦し、娘婿である織田信長と道三の娘である濃姫(帰蝶)との婚姻を通じて、同盟関係を構築した [11]。この同盟は、信秀が東の今川氏との戦いに専念するための重要な外交戦略であったと考えられている [12]

経済力の強化#

信秀は、軍事的な拡大だけでなく、経済基盤の強化にも力を入れた。那古野城の周辺に商工業者を誘致し、経済活動を活発化させたほか、津島湊(現在の愛知県津島市)や熱田湊(現在の名古屋市熱田区)といった尾張国の主要な商業港を掌握し、そこから上がる利益を財源とした [13]。また、寺社の保護にも努め、経済的な支援を行うことで、自らの権威を高めようとした [14]

子息たちの教育#

信秀は、多数の子息をもうけた。特に嫡男である信長には、幼少期から厳しくも自由な教育を施したとされている [15]。信長が「うつけ者」と称される奇行を繰り返しても、信秀はそれを咎めることなく、むしろその才覚を見抜いていたという逸話も伝わる [16]。信長以外の息子たちも、尾張国内の要衝に配置し、家臣団の統制や領国の安定に努めさせた。

最期#

天文20年(1551年)3月2日、信秀は那古野城で病没した [17]。享年42歳。彼の死後、嫡男の信長が家督を継承したが、信秀の葬儀の際に信長が奇抜な服装で現れ、抹香を投げつけたという逸話は有名である [18]。信秀の死後も、織田家は尾張国内の統一に向けた戦いを継続することになる。

関連事項#

織田信長への影響#

織田信秀が築いた尾張国の基盤と、対今川氏・斎藤氏との外交関係は、後の信長による天下統一事業の出発点となった [19]。信秀の代に培われた経済力や、家臣団の組織化も、信長の飛躍に大きく貢献したと言える。信長が今川氏を打ち破った桶狭間の戦いも、信秀の時代からの対今川氏戦略の延長線上にあると評価されることが多い [20]

居城#

織田信秀の居城は、勝幡城から那古野城へと移った。那古野城は、現在の名古屋城の二の丸付近に位置していたとされている [21]。この城は、尾張国の中心部に位置し、交通の要衝を押さえる上で重要な拠点であった。

脚注

  1. 谷口克広「織田信秀」『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年。
  2. 小和田哲男『織田信長』(中公新書)中央公論新社、1991年、24頁。
  3. 谷口克広『織田信長と戦国の魔術師たち』洋泉社、2011年、14-16頁。
  4. 谷口克広「織田信秀」『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年。
  5. 谷口克広『尾張・織田氏の系譜』(歴史読本選書)新人物往来社、2007年、38-40頁。
  6. 小和田哲男『織田信長』(中公新書)中央公論新社、1991年、27-28頁。
  7. 谷口克広『織田信長と戦国の魔術師たち』洋泉社、2011年、18頁。
  8. 柴裕之「松平清康」『戦国大名と外様国衆』吉川弘文館、2014年。
  9. 谷口克広『織田信長と戦国の魔術師たち』洋泉社、2011年、20-22頁。
  10. 小和田哲男『織田信長』(中公新書)中央公論新社、1991年、35-36頁。
  11. 谷口克広「斎藤道三」『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年。
  12. 谷口克広『尾張・織田氏の系譜』(歴史読本選書)新人物往来社、2007年、45-47頁。
  13. 小和田哲男『織田信長』(中公新書)中央公論新社、1991年、30-32頁。
  14. 谷口克広『織田信長と戦国の魔術師たち』洋泉社、2011年、25-26頁。
  15. 谷口克広『織田信長』(人物叢書)吉川弘文館、2012年、16-18頁。
  16. 太田牛一『信長公記』(角川ソフィア文庫)角川学芸出版、2006年。
  17. 谷口克広「織田信秀」『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年。
  18. 太田牛一『信長公記』(角川ソフィア文庫)角川学芸出版、2006年。
  19. 小和田哲男『織田信長』(中公新書)中央公論新社、1991年、40-42頁。
  20. 谷口克広『織田信長と戦国の魔術師たち』洋泉社、2011年、28-30頁。
  21. 名古屋市教育委員会「那古野城跡」『名古屋市遺跡詳細分布調査報告書』名古屋市教育委員会、1999年。

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