概要#
本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)に、京都の本能寺において、織田信長が家臣である明智光秀の謀反によって自害に追い込まれた事件である。この事件により、天下統一を目前にしていた信長の時代は突如として終焉を迎え、その後の歴史に大きな影響を与えた。
歴史・背景#
織田信長の天下統一事業#
信長は、尾張国(現在の愛知県西部)の戦国大名として台頭し、桶狭間の戦い、美濃攻略、足利義昭を奉じての上洛などを経て、急速に勢力を拡大した。室町幕府の滅亡、比叡山延暦寺の焼き討ち、武田氏の滅亡など、旧来の権威を打ち破り、革新的な政策を次々と実行することで、天下統一への道を突き進んでいた。天正10年(1582年)には、中国地方の毛利氏攻めを秀吉に命じ、自身は徳川家康らと共に上方で軍備を整え、四国や北陸方面の平定も視野に入れていた。この時点で、信長の支配領域は日本の主要部をほぼ網羅しており、天下統一は目前に迫っていたと評価されている [1]。
明智光秀の状況#
明智光秀は、元は越前朝倉氏に仕えていた浪人ともいわれるが、足利義昭を介して信長に仕えるようになり、その才覚を認められて織田家の重臣となった。丹波国(現在の京都府中部・兵庫県東部)の平定に功績を挙げ、丹波一国を与えられ、坂本城(滋賀県大津市)や亀山城(京都府亀岡市)を居城とした。信長の厳しい性格から、光秀はしばしば叱責や不遇な扱いを受けたとされるが、一方で信長から重要な任務を任され、信頼されていた側面もあった。しかし、中国攻めへの出陣を命じられた際、信長から与えられた接待役を解かれ、さらに出陣直前に信長が光秀の領地である出雲・石見の没収を示唆したとされるなど、光秀に不満や危機感を抱かせる出来事が重なったことが指摘されている [2]。
主要な内容#
事件の経過#
天正10年5月、信長は毛利攻めを進める羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の援軍として、明智光秀に山陰方面への出陣を命じた。光秀はこれに応じ、丹波亀山城で軍勢を整えた。しかし、6月1日、光秀は突如として進路を京都に変更。翌6月2日の未明、本能寺に宿泊していた信長を襲撃した。
当時の本能寺には、少数の側近や小姓しかおらず、信長は不意を突かれる形となった。襲撃を知った信長は奮戦するも、多勢に無勢であり、やがて寺に火を放ち、自害したとされている。信長の遺体は発見されず、その最期については諸説あるが、一般的には寺中で自害したと伝えられている。同時に、信長の嫡男である織田信忠も、宿泊していた妙覚寺から二条御所へ移って抗戦したが、多勢の明智軍に囲まれ、自害した [3]。
光秀の動機#
明智光秀が謀反を起こした動機については、古くから多くの議論がなされており、現在に至るまで定説は確立されていない。主な説としては以下のものが挙げられる。
- 怨恨説: 信長からの度重なる理不尽な叱責や冷遇、あるいは領地没収を示唆されたことなど、個人的な恨みが募ったという説。特に、徳川家康を接待する役目を解かれ、丹波・近江の領地を召し上げられ、出雲・石見を与えるとされたことが、光秀に与えた精神的打撃が大きかったとされる [4]。
- 野望説: 天下を奪うという光秀自身の野望があったとする説。信長が天下統一を目前にしていた状況で、自らが新たな天下人になろうとしたという見方である。
- 朝廷関与説: 信長の強権的な政策に危機感を抱いた朝廷が、光秀を唆したという説。しかし、具体的な証拠は乏しく、推測の域を出ない [5]。
- 四国説: 信長が長宗我部氏と和睦したにもかかわらず、その後に長宗我部氏討伐を命じたことで、長宗我部氏と関係の深かった光秀が板挟みになり、謀反に至ったという説。
- 秀吉黒幕説: 羽柴秀吉が光秀を唆し、信長を討たせたという説。しかし、秀吉が光秀を利用したとしても、その後の光秀の行動を完全にコントロールできたかは疑問が残る。
これらの説は、いずれも決定的な証拠を欠いており、複合的な要因が絡み合っていた可能性も指摘されている。
関連事項#
三日天下#
本能寺の変で信長を討った明智光秀は、その後、畿内の諸大名に協力を呼びかけたが、その支持は広がらなかった。信長の死を知った羽柴秀吉は、毛利氏との講和を急ぎ、「中国大返し」と呼ばれる迅速な行軍で京へと戻った。そして、信長を討ってからわずか11日後の天正10年6月13日(1582年7月2日)、山城国山崎(現在の京都府大山崎町)において、光秀軍と秀吉軍が激突した(山崎の戦い)。この戦いで光秀は秀吉に敗れ、敗走中に落ち武者狩りによって殺害されたとされている。このため、光秀が天下を握ったのはわずか11日間であったことから、「三日天下」という言葉が生まれた。
信長の後継争い#
本能寺の変による信長の死は、織田家の家臣団に大きな動揺を与え、後継者争いを引き起こした。山崎の戦いで光秀を討ち、信長の仇を討った秀吉は、その功績を背景に織田家における発言力を強めた。清須会議では、信長の三男・織田信孝や柴田勝家らを抑え、信長の嫡孫である三法師(織田秀信)を擁立し、実質的な主導権を握った。その後、秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田家中の実力者としての地位を確立し、天下統一事業を引き継いでいくこととなる [6]。
影響#
本能寺の変は、戦国時代の終焉と新たな時代の幕開けを告げる画期的な事件となった。信長が築き上げてきた秩序は一時的に崩壊するが、秀吉がその空白を埋める形で急速に台頭し、その後の豊臣政権の基礎を築いた。また、この事件は、日本史における「もし信長が生きていたら」という問いを常に投げかけ、多くの歴史小説やドラマ、研究のテーマとなってきた。信長の死は、日本の歴史の方向性を大きく変える転換点であったと言える。
脚注
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