賤ヶ岳の戦い

最終更新: 2026/1/26

概要#

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、1583年(天正11年)に近江国伊香郡賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)周辺で繰り広げられた合戦である [1]。この戦いは、織田信長の死後、その政権の主導権を巡って対立した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家の間で戦われた。結果として秀吉が勝利し、信長の後継者としての地位を確立する上で決定的な転換点となった [2]

歴史・背景#

織田信長の死と清須会議#

1582年(天正10年)6月、本能寺の変において織田信長が明智光秀によって討たれると、織田家内部では後継者問題が浮上した。信長には嫡男・織田信忠も同時に死去しており、誰が織田家の家督を継ぐか、また信長が築き上げた広大な領国の統治をどうするかという喫緊の課題に直面した [3]

同年6月27日、尾張国清須城(現在の愛知県清須市)で、織田家の重臣である羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀池田恒興らが集まり、信長の後継者と遺領の分配について話し合いを行った。これが「清須会議」である [4]

会議では、柴田勝家が信長の三男・織田信孝を推したのに対し、羽柴秀吉は信忠の遺児である幼少の三法師(後の織田秀信)を擁立した。結果として、秀吉の主張が通り、三法師が織田家の家督を継ぐことになった。しかし、実質的な権力は後見人である秀吉と、他の重臣たちによって分担される形となり、特に勝家と秀吉の間には深い亀裂が生じた [5]

秀吉と勝家の対立の激化#

清須会議後も、秀吉と勝家の対立は解消されなかった。秀吉は、信長の次男である織田信雄を味方につけ、また丹羽長秀や池田恒興とも連携を強化し、織田家中の主導権を握ろうとした。一方、勝家は信孝を擁立し続け、秀吉に対抗する姿勢を明確にした [6]

1582年10月、秀吉は病と称して大坂城に引きこもっていた信孝を攻め、降伏させた。これにより信孝は三法師の安堵を誓い、人質を差し出すことで和睦が成立した。しかし、これは一時的なものであり、勝家は越前で冬の間に兵力を蓄え、翌春の秀吉との決戦に備えた [7]

主要な内容#

開戦と膠着状態#

1583年3月、越前を本拠とする柴田勝家は、雪解けを待って大軍を率いて近江国へと侵攻を開始した。勝家は信孝と連携し、美濃方面からも秀吉を挟撃する構えを見せた [8]

これに対し、羽柴秀吉は迅速に兵を展開し、近江国伊香郡賤ヶ岳周辺に防衛線を構築した。秀吉軍は、大岩山に中川清秀、岩崎山に高山右近、賤ヶ岳に桑山重晴らを配置し、砦を築いて勝家軍の進撃を阻止した [9]

勝家軍は、佐久間盛政を先鋒として賤ヶ岳の砦群に攻撃を仕掛けたが、秀吉軍の堅固な守りの前に膠着状態に陥った。特に、秀吉配下の若手武将である加藤清正福島正則脇坂安治らは、この戦いで活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」と称されることになる [10]

佐久間盛政の軽挙と秀吉の大返し#

戦線が膠着する中、勝家軍の佐久間盛政は、秀吉が美濃方面の信孝軍を牽制するために一時的に戦線を離脱した隙を突き、大岩山の中川清秀の砦を急襲した [11]。中川清秀は奮戦するも討ち死にし、大岩山は陥落した。盛政は勢いに乗り、さらに岩崎山も攻め落とそうとしたが、これは勝家の命令に反する独断専行であった [12]。勝家は盛政に撤退を命じたが、盛政はこれを無視して進撃を続けた。

この報を受けた秀吉は、美濃から驚異的な速さで賤ヶ岳に引き返した。この「賤ヶ岳の大返し」と呼ばれる迅速な行軍は、秀吉軍の士気を高めるとともに、勝家軍に動揺を与えた [13]。秀吉軍は、大岩山を奪還すべく猛攻を仕掛け、佐久間盛政軍を打ち破った。

賤ヶ岳の戦いの布陣図
賤ヶ岳の戦いの布陣図
賤ヶ岳の戦いにおける両軍の布陣図

柴田軍の総崩れと勝家の自害#

佐久間盛政軍の壊滅により、柴田軍は総崩れとなった。柴田勝家は、自軍の劣勢を悟り、越前へと撤退を開始した。秀吉軍はこれを追撃し、勝家は本拠地である越前北ノ庄城(現在の福井県福井市)に籠城した [14]

4月24日、秀吉軍は北ノ庄城を包囲し、猛攻を仕掛けた。勝家は、抵抗を続けるも多勢に無勢であり、落城を悟った。勝家は妻であるお市の方(信長の妹)と共に自害し、4月24日に北ノ庄城は落城した [15]

この戦いの結果、柴田勝家、織田信孝らは滅亡し、羽柴秀吉が織田政権の事実上の後継者としての地位を確立した [16]

関連事項#

賤ヶ岳の七本槍#

賤ヶ岳の戦いにおいて、特に武功を挙げた秀吉配下の7人の若手武将は、「賤ヶ岳の七本槍」と称された。彼らは以下の通りである [17]

彼らはこの戦いを機に名を上げ、後の秀吉の天下統一事業において重要な役割を果たすこととなる。

秀吉の天下統一への道#

賤ヶ岳の戦いは、秀吉が信長の後継者としての地位を確立し、天下統一への道を本格的に歩み始める重要な転換点となった。この勝利により、秀吉は織田家中の反対勢力を一掃し、自身の権力基盤を磐石なものとした [18]。その後、秀吉は小牧・長久手の戦い徳川家康と和睦し、四国征伐九州征伐小田原征伐などを経て、天下統一を達成することになる [19]

賤ヶ岳古戦場の現在#

賤ヶ岳古戦場は、現在の滋賀県長浜市に位置し、戦いの舞台となった賤ヶ岳の山頂には、古戦場碑や展望台が整備されている [20]。周辺には、北近江の歴史を伝える施設や、七本槍ゆかりの地などが点在しており、多くの歴史愛好家が訪れる観光地となっている。

脚注

  1. 谷口克広「信長と消えた家臣たち」中央公論新社、2007年。
  2. 藤田達生「秀吉と秀次」講談社、2015年。
  3. 堀新「織田信長」山川出版社、2011年。
  4. 宮本義己「知られざる清須会議の真実」歴史読本、2007年10月号。
  5. 桑田忠親「豊臣秀吉」講談社、1981年。
  6. 谷口克広「柴田勝家」吉川弘文館、2001年。
  7. 渡辺武「豊臣秀吉の生涯」新人物往来社、2009年。
  8. 笠谷和比古「関ヶ原合戦」講談社、2000年。
  9. 歴史群像編集部「戦国合戦大全」学習研究社、2005年。
  10. 乃至政彦「戦国の智謀」ベストセラーズ、2016年。
  11. 矢部健太郎「賤ヶ岳の戦い」歴史街道、2013年4月号。
  12. 渡辺大門「歴史の誤解」彩図社、2011年。
  13. 小和田哲男「豊臣秀吉と戦国の城」学研、2008年。
  14. 藤本正行「信長の時代」吉川弘文館、2007年。
  15. 谷口克広「織田信長家臣人名辞典」吉川弘文館、1995年。
  16. 池上裕子「織田信長」吉川弘文館、2012年。
  17. 鈴木眞哉「戦国武将の知略」新人物往来社、2008年。
  18. 小和田泰経「戦国武将の勝敗学」学研、2010年。
  19. 脇田晴子「日本中世の国家と社会」吉川弘文館、1992年。
  20. 長浜市観光振興課「賤ヶ岳古戦場ガイド」長浜市、2020年。

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