概要#
織田信勝(おだ のぶかつ)は、日本の戦国時代に尾張国を支配した戦国大名・織田信秀の三男(または四男)である [1]。兄に織田信長がおり、諱は信行(のぶゆき)とも称される。父の死後、家督を継いだ信長と対立し、尾張統一を目指す信長にとって最大の障害の一つとなったが、最終的に信長に謀殺された [2]。
歴史・背景#
織田氏の状況と信勝の誕生#
信勝が生まれた享禄元年(1528年)頃の織田氏は、尾張守護である斯波氏の下で守護代を務める織田大和守家(清洲織田氏)と、その家臣筋でありながら実力を蓄えていた織田弾正忠家(織田信秀の家系)が並立し、複雑な権力構造を形成していた [3]。信勝の父である信秀は、弾正忠家の当主として周辺諸国との戦いを繰り広げ、勢力を拡大していた。信勝は信秀の三男または四男として生まれ、幼名を勘十郎と称した。生母は信長と同じく土田御前とされている [1]。
家督継承と信長との対立の萌芽#
天文20年(1551年)に父・信秀が病没すると、家督は嫡男である信長が継承した [4]。しかし、信長は生来の奇行が多く、「うつけ者」と評されることもあったため、家中の信長に対する不満は少なくなかった [5]。一方、信勝は信長と異なり、礼儀正しく、教養も兼ね備えていたとされ、家臣団からの人望も厚かったと伝えられる [2]。このため、信勝を擁立して信長に代えようとする動きが、信秀の死後間もなくして表面化する。
信秀の葬儀の際、信長が抹香を投げつけるなどの「うつけ者」ぶりを発揮したのに対し、信勝は喪主として立派に振る舞ったとされており、この出来事が信長と信勝の間の対立を決定づけたとする見方もある [5]。
主要な内容#
第一次信勝の反乱(稲生の戦い)#
信秀の死後、信長は尾張統一を目指して清洲織田氏との戦いを継続していた。しかし、天文23年(1554年)に清洲城主の織田信友を攻め滅ぼし、清洲城を本拠地とすると、信勝を擁立する動きが本格化する [6]。
弘治元年(1555年)、信勝は柴田勝家、林秀貞、林通具らの重臣を味方につけ、兄・信長に対して反乱を起こした [7]。この反乱は、信勝が信長の家臣である津々木蔵人から信長への讒言を信じ、信長を廃して自身が家督を継ごうとしたことが発端とされている [8]。
弘治2年(1556年)8月24日、信長軍と信勝軍は尾張国愛知郡の稲生村(現在の名古屋市西区稲生町)で激突した。これが「稲生の戦い」である [9]。この戦いでは、信長方が当初劣勢に立たされたものの、信長自身の奮戦と、佐々政次の活躍によって信勝方を撃破した [10]。信勝方の柴田勝家、林秀貞らは敗走し、林通具は戦死した。
戦後、信長は信勝の助命嘆願に応じ、信勝を許した。この助命には、信長の生母である土田御前の仲介があったとされている [1]。信勝は清洲城の南にある末森城に蟄居し、柴田勝家も信長に降伏した。
第二次信勝の反乱と最期#
稲生の戦いからわずか1年後の弘治3年(1557年)、信勝は再び信長に対して反乱を企てる [1]。信勝は、前回の反乱で信長に許されたにもかかわらず、自身の家臣である津々木蔵人を通じて信長を暗殺しようと画策したとされる [8]。
しかし、この計画は信長の家臣である柴田勝家によって信長に密告された [11]。柴田勝家は前回の反乱で信勝方として戦ったが、稲生の戦いでの信長の器量に感じ入り、信長に忠誠を誓うようになっていたと伝えられる [10]。
信長は、病と偽って信勝を清洲城に招き入れた [1]。信勝は信長の病を案じて清洲城に赴いたが、城内で信長の家臣である河尻秀隆らに捕らえられ、そのまま殺害された [12]。この時、信勝は29歳であった。信勝の死により、信長は尾張統一における最大の障害の一つを取り除き、尾張国支配を確固たるものとしていく。
関連事項#
兄弟関係と土田御前#
信長と信勝は実の兄弟であり、生母も同じ土田御前であった。土田御前は信勝を溺愛していたとされ、稲生の戦いの後には信勝の助命を信長に強く嘆願したと伝えられている [1]。しかし、信長は二度目の謀反を許さず、信勝を殺害したため、土田御前は信長を深く恨んだとされる [1]。この兄弟間の確執と、それに伴う土田御前の悲しみは、織田信長の人間性を語る上でしばしば引用されるエピソードである。
家臣団の動向#
信勝の存在は、織田氏家臣団の動向にも大きな影響を与えた。柴田勝家や林秀貞、林通具といった重臣が信勝を支持したことは、信長が家督を継いだ当初、必ずしも一枚岩ではなかったことを示している [7]。しかし、稲生の戦いでの信長の勝利と、その後の信長による寛大な処置、そして信勝の二度目の反乱とその死は、家臣団を信長の下にまとめ上げる結果となった [10]。特に柴田勝家は、信勝の死後、信長の最も忠実な重臣の一人として活躍し、織田四天王の一人に数えられるまでになった。
信勝の評価#
信勝は、礼儀正しく教養もあり、家臣からの人望も厚かったと伝えられることから、もし彼が家督を継いでいれば、信長とは異なる形で尾張統一を進め、その後の歴史も大きく変わっていた可能性が指摘されることもある [2]。しかし、信長の圧倒的な才能と運、そして非情な決断力の前には、信勝の資質は及ばなかったと言える。信勝の死は、信長が天下統一を目指す上で乗り越えなければならない、血縁による障害を排除した重要な出来事として位置づけられる。
信勝の諱について#
信勝の諱は、一般的には信勝(のぶかつ)と表記されることが多いが、当時の文書や系図によっては信行(のぶゆき)と記されているものも存在する [1]。『信長公記』では「勘十郎信行」と記されており、これが最も信頼性の高い史料における表記である。しかし、後世の創作物などで「信勝」の表記が広まったため、現在では両方の表記が用いられている。本記事では、広く知られている「信勝」を主に使用し、補足的に「信行」にも言及した。
脚注
- 谷口克広「織田信長家臣人名辞典」吉川弘文館、2010年、108-109頁。↩
- 桑田忠親「織田信長」講談社学術文庫、2000年、45-47頁。↩
- 池上裕子「織田信長と天下」岩波新書、2012年、10-15頁。↩
- 歴史群像シリーズ編集部編「織田信長」学研プラス、2007年、34-35頁。↩
- 坂本太郎監修「日本史大辞典 第1巻」平凡社、1992年、667頁。↩
- 谷口克広「織田信長の生涯」洋泉社、2018年、30-32頁。↩
- 小和田哲男「織田信長」PHP研究所、2002年、48-50頁。↩
- 『信長公記』首巻「勘十郎信行之事」↩
- 歴史読本編集部編「戦国合戦史事典」新人物往来社、2007年、120-121頁。↩
- 谷口克広「織田信長家臣人名辞典」吉川弘文館、2010年、109頁(柴田勝家の項)。↩
- 桑田忠親「織田信長」講談社学術文庫、2000年、50-51頁。↩
- 歴史群像シリーズ編集部編「織田信長」学研プラス、2007年、40-41頁。↩
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